なぜタバコは良くてドーピングはダメなのか

まずはこのtweetを読んでもらいたい。アンチドーピングの大義名分として、プレーヤーたちの健康を損なうというものがある。しかしこれは逆に言えば、健康を損なわないドーピングならやってもよろしいという理屈になってしまう。為末さんの言葉を借りればそれはサプリメントと呼ばれ、メッシが使っている成長ホルモン剤は、治療ということになっている。

プレーヤーたちの努力と別のところで行われるレベルアップは競技の公平性を損ねるという言い方もできるが、これにしたってスポーツメーカーが日々技術を磨き、使っている道具はレベルアップしている。最近だと北京オリンピックで水泳の高速水着レーザーレーサーを着た選手が世界記録を連発し禁止になった。これだってきっと劇的に向上しすぎたから目をつけられただけで、例えば数年かけて記録を伸ばしていたら正当な技術の進歩として認められたかもしれない。

少し違うジャンルの例で言うと、私は、タバコはただの嗜好品ではなく、ドーピングとしての性格を持っていたりするのではないかと思っている。健康を害するが、頭がすっきりしてパフォーマンスが上がるのであれば、それはドーピングに似ている。

もちろん、サプリメントや治療との線引きが難しいし、道具だって進歩するんだから人間の肉体だって進歩していいし、タバコだってドーピングみたいなものなのに認められてるんだから、ドーピングだって認めてあげようよ、などと言いたいわけではない。しかし、ドーピングという言葉の定義は極めてあいまいなもので、多くの人がドーピングと聞いただけで条件反射するようなわかりやすいものではないのだということは言いたい。白か黒かではなくグラデーションで、自由にすると歯止めが効かなくなるから適当なところで制限しましょうね、なのだ。

今は、ドーピングを禁止している側が、少し感情論になってしまっているように感じる。例えば、ある薬物をドーピングとするか、サプリメントとするかの基準についての議論が不十分で、本来は認めてもいいような薬物までヒステリックに禁止してしまっているような気がするのだ。

正当性のないルールには、プレーヤーだって従わない。それぞれが持つ倫理観にしたがって抜け穴を探す、といったことが正当化されやすい。禁止はされてるけど実際には健康に問題なさそうだし、だったらバレなきゃ使っていい、と。

大切なことは、ドーピングを取り締まることではなく、プレーヤーの健康を守りながら、誰もが納得できるルールの上で、公平な勝負をすること。健康被害0の薬物を全員が使うようになれば、ドーピングの効果は相対的に小さくなる。例えばそういう防ぎ方だって、考えられるんじゃないだろうか。

ゴルフの体験レッスンが予想通りひどかった話

近くの某ジムで体験レッスンやってるっていうから行ってみたんです。正面と後ろからスイングを撮ってくれてフォームがチェックできるという優れもののシミュレーションマシンを使います。プロのスイングと比較してどこが悪いかチェックできるなんて自慢げに言ってくるんですよ。その時点でまあだいたいの想像はついていました。

いざレッスン・・・いや、あれをレッスンとは呼びたくないですが、始まってみると、何回かスイングしてみて、「あなたのスイングのよくないところはココとココとココ!だからこう直しましょう」みたいなことを言い始めるんです。
いやあなたそれはレッスンじゃなくて間違い探しですよ、と。そんなことは素人にだってできるんです。高いお金を払ってあなたに期待することは、そんなことではありません。

プロのスイングのマネをするのがいいと思い込んでるんですよね。しかも、そのプロというのも特定の誰かのことを指していて、たった1つ正解のスイングというものがあり、それにいかに近いかどうかがスコアを決めると思っているようです。
人にはそれぞれ違いがあり、それは性格的なものだったり、筋肉の付き方だったり、今までの別のスポーツの経験だったりするわけです。軍隊や、機械のチューンアップじゃないんです。ひとりひとりにあったフォームを提案してほしいんですよ。

「今あなたのスイングはこうなっていますが、意図があってそうしているのですか?」

これくらいの質問はあって当然です。「アイスホッケーからゴルフに転向した選手が変わったフォームをしているが参考にならない」と言っていましたがとんでもない。プロのコーチを名乗りたければ、その選手こそが貴重な見本です。そういう引き出しの多さが、どれだけそれぞれに合ったアドバイスができるかを決めるのです。

いろんな選手のフォームを知っていること、その意図を自分なりに理解して消化していること、相手に合ったフォームをチョイスできること、それを言語化して伝えることができること。いいコーチっていうのは、そういうことだと思います。

プログラマは棋士である

昔、こんなことを言っている人がいました。

プログラミングなんて、しっかりロジック立てて、
その通りに書くだけだろ?

もちろんこの人はコードなんて書けません。自分は自分の領域をプロとしてこなすから、お前はお前の領域をプロとしてこなせというタイプ。そのポリシー自体は別にいいのですが、こんなこと言う人とは絶対一緒に仕事したくないと思ったものです。

確かに、ロジック立ててコード書くだけなんですが、それは例えば将棋だって同じことです。敵味方合わせても駒は40しかなく、動き方が決まっているのですから、ちゃんとシミュレーションすれば勝てるはずですね、羽生善治にだって。でも実際は勝てないんですよ。そんな暴論を振りかざすには人間の頭は処理速度もメモリも足りなくて、じゃあ紙と時間があれば良いのかと言ってもどうせどこかで間違えるんです。

全部の手を読む余裕はない。だから必要そうな手だけを読むわけですが、これはもうスキルや経験の世界であって、「だけだろ?」なんて言えるものではありません。

そして、プログラマが音楽を聴きながら仕事をしていたり、夜間など人がいない時間に仕事をするのも、プログラマが棋士だからです。将棋を指すのは、和室だったり縁側だったりしますが、それは決まって静かな場所です。

図書館のような環境を、とまでは言いませんが、もしプログラマの部署があったなら、その部屋くらいは電話を置かなくてもいいのではないかなと思います。